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srgyのブログです

青ブタの原作小説を読んでます

電子書籍で(スマホKindleアプリ)。
現在5巻目(おるすばん妹)まで読了。1ヶ月くらい前に1巻だけ読んだあと、それから放置してたんだけど、2巻に手を着けてからは1日に1巻くらいのペースで読んでる。ライトノベルってあまり読んでこなかったんだけど、とにかく説明過多で読むのにやたら時間がかかるイメージがあった(偏見)。でも、青ブタは文体が小難しくなく、表現が比較的平易でサクサク読める。それと、アニメを先に観てたので情景を容易に想像できるというのも大きいのだろう。

そのアニメとの細かな……だったり、細かじゃなかったりする違いも楽しんでいる。「これは良改変だったな」というのも「これは原作の方が良かったんじゃ…」というのもある(尺の都合で止む無く…というのが大半なんだろうけど)。エピソードの順序がかなり入れ替わってたり、そもそもエピソード自体がバッサリなくなってたり、「え、アニメだと未だに××なのに、原作だとこの時点で〇〇なの…!?」とか。あと映画「おでかけシスター」で何回か咲太の口から出た「豊浜は高学歴アイドルを目指してる」。これもアニメしか観てないと「そんな設定、あったっけ……???」ってなる(なった)けど、原作読んでやっと「あー、これのことかあ」ってなった。

まだ1周目だしきちんと比較したわけじゃないけど、3話分を使ってアニメ化した1、2巻目(バニーガール先輩とプチデビル後輩)よりも、2話分でアニメ化した3、4巻目(ロジカルウィッチとシスコンアイドル)の方が改変の度合いが大きい気がする。

 

それに……読み終えたばかりの5巻(おるすばん妹)。こないだ書いたブログのエントリと(今のところ)いちばん関係が深い巻。あのエントリは、本当にかえで/花楓が好きすぎて勢いで書き上げた部分が大きくて、書いてる最中は「これって結構アリな考察なのでは…!?」なんて思ってたことが、原作だと地の文にあっさり書かれてたり……トホホ。まあでも、アニメ版だけを観て書いたにしてはまあまあのデキだと褒めてやってもいいのではないだろうか(自分に甘い)。

自分でも意外だったのは、『かえで』から『花楓』に戻った日の朝の部分を読んでて、『かえで』がいなくなってしまった喪失感よりも『花楓』が帰ってきてくれた喜びの方を大きく感じたこと。アニメの方を何周もして、(大袈裟じゃなく)毎日『かえで』と『花楓』のことを考えてたから、自分の中で気持ちの整理ができてしまったのだろうか……?(でも、そのあとの翔子さんが日記を読み上げるシーンではやっぱり泣いたけど)

それに例の「目覚めたばかりの『花楓』」も、原作だと全然生意気には感じなくて、「ごく普通のかわいい妹」だと思った。この延長線上にアニメ版「おでかけシスター」の『花楓』が存在するということになんの違和感もない。
…………やっぱり、アニメ版の「生意気な『花楓』」は、やりすぎだったんじゃないかなあ…………。


(2023/08/24 22:45追記)

「ゆめみる少女」と「ハツコイ少女」読了。映画「青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない」の原作である2冊。

原作とアニメ版を比較すると、物語のスタート地点ではかなりの数のエピソードの順序が入れ替わっているが、それ以降は大筋は変わりない*1。……が、重要シーンと重要シーンの間の会話シーンが結構削られてたりする。まあ、尺の都合で削るならこういうシーンからかな……と納得できなくもないが、あるのとないのとでは作品の印象がかなり違ってくる。珍しく上里と咲太が(比較的)「普通の」会話をしてるシーンとか、「双葉は、咲太のことを友人として本当に心配してるんだな……」というシーンとか。これ以外にも、双葉の登場シーンは相当削られてる。映画の方は「咲太と翔子と、そして麻衣の物語」という色彩が濃くなっているけど、原作だと、それに加えて双葉、古賀、花楓、のどか、咲太の父親、それに国見*2たち「咲太の周囲の人々」の行動や心情も丁寧に描写されてて、それによって「『当たり前の幸せ』のかけがえのなさ」が際立っている。

 

それに咲太と花楓の、ごく普通の兄妹の、なんてことない(でも、大切な)会話。原作を読むと、『かえで』に対する『花楓』の感情というのは、思ってたよりフラットなのかもしれないな……と思った。原作だと花楓が髪を切りに行くことになった経緯も明確に描かれてたり、「ハツコイ少女」の時点(12/29)で、咲太と花楓で動物園に行って、パンダを見て、パンダのぬいぐるみを買って帰ってたり*3するんだな…。まだ「おでかけシスター」は読んでないし、「嫉妬」みたいなものもゼロではないのかもしれないけど……。

あと、どうしても「一人の人間の生死」までどうにかなったのなら、『かえで』もどうにかなったんじゃないのか……という思いが芽生えてきてしまった。アニメだと「咲太が下した決断」からラストシーンまでがわりとさらっと描かれてたせいかそういう考えには至らなかったけど、小説だと結構濃密に描かれてる上に能動的に読み進めないといけないから、その間にいろいろ考えてたせいだろうか……?

 

さあ、次はいよいよ……。


(2023/08/26 13:50追記)

「おでかけシスター」読了。今まででいちばん「原作に忠実なアニメ化」だった(いや、原作小説を読んだ感想が「〜アニメ化だった」というのも変だが)。
例えば、自宅に友部さんと父親が来て花楓の進路相談をするシーンで、花楓の膝の上になすのが飛び乗るところ。これ、なんとなくアニメ版独自の演出なのかと思ってたけど、これも全く原作のままだった。
もちろん細かい差異や改変、カットや簡略化されたシーンはゼロではないけど、基本的にほぼそのままアニメ化されてる。

最も違いが大きいのは映画の(Cパートを除いた)ラストシーンにあたる2月28日。ここで「あの人」が登場するとは思わなかった…。このシーンは、12月公開の「ランドセルガール」に回されるんだろうか?

……あと、(どうでもいいことかもしれないけど)花楓と咲太の服、まさか一緒に洗ってるとは思わなかった……。いや、気にはなってたんだ。「『かえで』は全然気にしないだろうけど、『花楓』は嫌がるんじゃないかな…?」って。原作に明記されてたとは……。

 

 

……で、これほど原作に忠実にアニメ化してるのに、読後・鑑賞後の「『花楓』の、『かえで』に対する感情」についての印象は原作とアニメで全然違っていた(自分だけかもしれないが……)。

アニメだけしか観てない段階だと「『花楓』は『かえで』に対しての嫉妬があって、咲太にもっと『自分』を見てほしいと思っている。峰ヶ原高校を受験するのも、『自分だって頑張れる』ということを咲太に認めてほしいから」だと思っていた(というか、深読みしすぎていたというか……)。

でも原作を読むと「2年間 頑張ってくれた『かえで』にお返しがしたい。そのために、彼女が叶えられなかった夢である峰ヶ原高校に行きたい」という、セリフや地の文で語られていたことを、変に曲解せずにそのまま受け入れたい……という気持ちになった。

 

 

原作と、それを忠実にアニメ化したものとで、何故こんなに印象が違うのだろうか……?と考えると、理由はいくつか思いつく。

 

ひとつは「アニメの力」。
予告編にも使われた、保健室での花楓の慟哭のシーン。花楓はここですすり泣きながら「もうひとりの私ががんばってきてくれた」と、かえでへの感謝を繰り返し述べていた。……が、このシーンの最後で彼女が語ったのは「きっと、前の私の方がよかったんだよ……」「お兄ちゃんだって、もうひとりの私の方がよかったんでしょ……?」という言葉だった。

ただ、このシーンも原作に忠実にアニメ化されており、花楓のセリフ自体は原作もアニメもほぼ変わりない。しかし、アニメ版のこのシーンは気合の入った作画、演出、そして久保ユリカさんの鬼気迫る演技によって、劇中で最も強烈な印象を観客に与えるシーンとなっている。

これらのことが相まって、花楓がこのシーンで最後に語った「お兄ちゃんだって、もうひとりの私の方がよかったんでしょ……?」という言葉を(そんな簡単に言い表せるような単純な感情ではないのに)「嫉妬」なのだと誤解し、そちらが「本音」で、その前に述べていた感謝の言葉は「建前」なのではないのだろうか……と思い込んでしまったのかもしれない。

 

次に、「地の文の力」。
青ブタの原作は、地の文の主語は「僕は〜」ではなく「咲太は〜」だが、実質的に咲太の視点を通した「一人称のような三人称の文体」で書かれている(「三人称一元視点」というらしい)。

この地の文によって「花楓は、2年間 自分の代わりに頑張ってくれたかえでに恩返しがしたいのだ。」…というようなことが、繰り返し何度も語られる。「これはあくまでも咲太の視点であって、花楓が本当にそう思っているのかどうかはわからない」…と疑うこともできるが、そういう邪推をせずに書かれている文章を素直に読んでいく限りは「花楓が、かえでに対してなにかネガティブな感情を抱いている」という印象はまず受けない。

 

そして、単純に「アニメだと削られたシーンが多いから」。
何度も書いている通り、「おでかけシスター」は原作に極めて忠実にアニメ化されているが、『かえで』から『花楓』に戻った「おるすばん妹」の終盤から「ゆめみる少女」「ハツコイ少女」ではかなりのシーンがカット・改変されており、その中には咲太と花楓の会話シーンも相当含まれている。

例えば、TVアニメ最終話に「病室のベッドの上で顔を赤らめながら「かえでの日記帳」を読む花楓。そこに咲太が見舞いに来たことに気づくと慌てて日記帳を隠す」……というシーンがある。エンドロールのバックのシーンで、ED曲が流れているためセリフは無いが、自分はこのシーンで「花楓は、咲太と「自分が『かえで』だった頃のこと」を話すのに、なにか忌避感があるのだろうか…?」と思ってしまった。

だが、原作でこのシーンに相当する場面では、赤面して日記を読むのをやめてしまうところまでは同じだが、その後咲太に「自分が『かえで』だった頃のこと」を訊いている(そして、自分で訊いておきながら悶絶したりしている)。

これ以降も、原作小説では咲太と花楓の「ごく普通の兄妹のありふれた会話」のシーンがいくつもある。これらを読むと、咲太が『かえで』を失ったショックから立ち直り、戻ってきた『花楓』ときちんと向き合って、腫れ物に触るような扱いをせず、2年間のギャップを埋めようと(『かえで』の時と同じように)「お兄ちゃん」として接しているのだということがよく解る。

そして、冬休み中に2人で動物園に行き、花楓は(かえでと同じように)パンダを見て喜び、パンダのぬいぐるみを買って帰っている。『かえで』から『花楓』に戻ってすぐに咲太が言った「退院したら動物園に行こう」という言葉をそのまま受けとめ、変に「言葉の裏」を想像したりはしなかった……ということなのだろう。

一方、アニメでは上記のようなシーンは大幅に削られてしまったため、戻ってきた花楓と咲太との兄妹関係の空気感がイマイチ掴みにくくなってしまった。そのため、花楓の内心を邪推する余地が生まれてしまったのかもしれない。

 

 

……これらの複合要因から、「アニメ版しか観ていない場合」と「原作を読んだ場合」の印象の違いが生まれてしまったのかもしれない。

「前者」の段階で勢いに任せて書き上げてしまった前エントリは、正直いま読むと結構恥ずかしい。
……けど、その時 胸の中にあった感情、衝動は、それはそれで決して嘘ではないので、消したり修正したりはせずに、そのまま置いておきます……。

 

 

さて、次の巻は「ランドセルガール」……なのだが、この巻以降に手を着けるのは12月公開の映画を観てからにしようと思っている。それまではアニメ、原作、コミカライズを繰り返し観たり読んだりして。
……それから……?

 

 

*1:……んだろうな、と思って読んでたら、物語の核心に触れるシーン(保健室のシーン)で、アニメだと一切説明されなかった、ものすごく重要な事実が突然開示されてびっくりした。確かにここを省いても最終的な結末は変わらないけど……。

*2:国見と翔子ちゃんが出会ったという「文化祭のミスコン」のエピソード、これ原作小説(おるすばん妹)でも1行で済まされてるんだけど、どこかで詳しい話が読めるんだろうか……??? / (2023/08/25 9:40追記) 自己解決。2016年にニコニコで「多数決ドラマ」という企画があって、そこで描かれたエピソードだったんだな。

*3:でも、この時の動物園のシーンはわりとさらっと済まされてるのに、特典小説「アニマルランド」で動物園に行った時(3月・春休み)には『かえで』との最後の日に動物園に行った時のことを思い出して感傷的になってたりするのは、ちょっと整合性が取れないような気もする……。